それでは、シンエヴァの考察記事と参りましょう!
今回はネタバレ全開でいきましょうか
カエルくん(以下カエル)
「ネタバレのない記事を読みたい方は、以下の記事を参照してください!」
主
「最初に語っておくと、エヴァンゲリオンの設定などの考察をいくらしても、無駄だと個人的には考えている。それは語るべき余地が大きすぎるし、自分がやりたいこととは違う。
庵野監督も過去に語っていたけれど、自分にとっては『エヴァを語ることは、自分自身を語ること』なんだよ。
なので、今回は”シンエヴァの個人的な解釈”について語っていこう」
カエル「設定の考察ではなく、そこに至るまでの作者……つまり、庵野監督の意図の考察、あるいは邪推ということだね。
わりかしうちは、作中設定どうのこうのよりも、そっちをメインにしているつもりではあるのかなぁ」
主「……深夜に4時間かけて編集していたYouTubeチャンネル用の動画が、オシャカになった衝動で書いているから、謎テンションのまま一気に駆け抜けようと思います。
もう、熱気バサラ並に”俺の解釈を聞け〜!!!”だから、そこんところYOROSHIKU!」
カエル「……はい、なかなか謎な感じで考察記事のスタートです。
この記事が面白かったら、ブックマーク、ツイートなどの拡散をお願いします!」
ネタバレ薄め!~シンエヴァ感想&技術面に着目!~カエルガタリ#3
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エヴァについてネタバレ薄目で語り中!
今回の考察の概要
それでは、最初に今回の考察の概要からお話ししましょう
シンエヴァの何が過去作に比べて変化したのかという話をしようか
カエル「結論としては、こういうことだね」
- 社会を描いたシンエヴァ
- 運命からの解放を描いたエヴァ
- リアルと虚構の付き合い方の大きな変化
主「主に語りたいのはこの点だろう。
特に、このシンエヴァが優れている、あるいは大きな変化をしたと考えるべきは、この2点だろう。
今回はこの3点を特に重点的に掘り下げていく。
その前に、確認しておきたいのは……エヴァという作品の読み方として、以下の3つの読み取りを中心にしていきたい」
- 碇シンジの物語としてのシンエヴァ→以下 シンジ観
- エヴァンゲリオンの世界の物語としてのシンエヴァ→以下 エヴァ観
- 庵野秀明の私小説としてのシンエヴァ→以下 庵野観
何度も語るように、うちではエヴァは庵野秀明の私小説である、という意見もあげています
この3つの視点に対して、シンエヴァは見事に答えを出した
カエル「碇シンジの物語にも決着をつけ、エヴァンゲリオンにさよならをし、庵野秀明の自己の救済にも成功した、と」
主「まあ、そういうことになるね。
この辺りの視点を中心に、今回の記事を書いていこうと思う」
社会を描いたエヴァ
第三村の登場の衝撃
まずは、社会を描いたエヴァということで、第三村の存在があげられるわけだね
ここが、今回大きな変化その1と言えるだろう
カエル「トウジ達が生きていたこともサプライズだけれど、その彼らが農村を作り上げ、生きていたということもまた、驚きではあるよね。
この辺りは自然な(リアル、写実的)な芝居も豊富で、観ていてびっくりしちゃったポイントかなぁ」
主「ここでエヴァ観、つまりエヴァンゲリオンの物語として読み解いていこう。
エヴァンゲリオンという作品は、いうまでもなくセカイ系の代表格である。
セカイ系の定義にも様々な討論があるものの、
-
エヴァっぽい作品
- 君と僕(恋人が多数)の関係が世界の情勢に大きな影響を与える作品
とされている。もっぱら、今では2の定義が多数派だと思われる。
で、今回のエヴァはその中間点……つまり、僕(個人)と世界の間の存在、社会が描かれているわけだ」
カエル「ふむふむ……。
小さいながらも、それが社会として成立しているということだ」
でも、それまでも……例えば学校とかは描かれていたよね?
それまでの描かれていたのは、ネルフ、学校などの小さいコミュニティだけなんだよ
主「社会とは何か……という論争は置いておくとしても、とりあえず学校や会社というのは、社会の構成要素ではあっても、それがイコール社会ではない。
社会とは多数の異なる立場の人が暮らす環境……つまり、学校があって、会社があって、病院があって、農作業者や工業員、公務員がいて……そういう大きなコミュニティのことだろう。
今回は、その大きなコミュニティを、わずかながらでも描こうとしているわけだよね」
カエル「それまでは個人とは何か? を問いただし、世界を滅ぼそうとしていた作品が……アスカが語るように”守るべき社会”を描き出した、ということがとても大事なんだね」
主「いってしまえば、それだけで大きな変化であり、全ておしまいなんだよ。
セカイ系のエヴァが社会を描いた。
その社会の中で生きる人々を描き、その中で人生を模索するシンジと、アスカ・レイのチルドレンを描いた。
だから、綾波が『自分で名前を決める』というのも、与えられた役割ではなく、社会の中で生きることを選択することができるということだよね。
君と僕の世界で与えられた運命ではなく、もっと普通の社会での生き方を選ぶことができるということだ」
庵野秀明と『おおきなかぶ』
続いて庵野秀明を語る目線のシンエヴァ……庵野観になります
まずは、『おおきなかぶ』の漫画かアニメを触れてほしい
カエル「庵野監督が、色々な人と共に頑張って株=映像作品を育てるという話だよね。
Qの後に鬱などで倒れてしまったことも描かれていて……可愛らしい絵柄ながらも、その壮絶な様子も窺い知れるという作品になっています」
主「庵野監督が他の監督と大きく違うのが、本人がカラーの代表でありプロデューサーでもあることだ。
もちろん、監督が能天気であっていいわけではないけれど、会社経営となるとよりシビアな予算管理や財政、権利、人員の管理が求められる。それまでのように、好きに作ればいいというものではない。
そんな中で、多くの人たちと触れてきたんだよね」
カエル「……つまり、第三村の人々というのは、カラーや協力してくれたスタッフの意味合いも込められていると」
主「シンジ=庵野監督だとしたら、あのように塞ぎ込んでいる時にも、村=カバーを存続させるために、尽力してくれたスタッフがいた。
それこそ畑に種や苗を植えてくれたり、慣れない医者の真似事をしたり……それは会社経営というのは、社会の一員として、かなり責任の大きなものだろう」
じゃあ、シンジくんが『どうしてみんな僕に優しんだ!』と憤るのも……
あのシーンはじ〜んとくるものがあるよね
主「シンジくんが引きこもる=庵野監督が鬱で倒れていても、優しくみんなが待っていた。
時には委員長のお父さんのように、厳しい叱責をする人もいるだろう。『最低限のことはしなさい!』と。だけれど、それも庇ってくれる人がいる。
それは……つらいよね。
シンジくんのような状態にいる時って、叱責される以上に優しくされる方が辛かったりすることもある。その優しさに応えられない自分の不甲斐なさが嫌になることもあるだろう。
その気持ちは……よくわかるし、伝わってきた」
カエル「……だから、あのシーンは”社会”なんだ」
主「新劇場版エヴァの登場=ニアサードインパクトで、みんな大変な思いをしたかもしれない。だけれど、それだけじゃない。
エヴァがあったから、幸せな思いをした人だっている。
全ての責任を抱える必要はない……それって、とても重い言葉だよね。
現実世界に置き換えるならば、自分のせいで震災以上のことを引き起こした……でも、それがあったからこそ、今の自分がいるという人もいる。その責任ばかりに囚われていたシンジ=庵野監督にとって、その言葉、みんなの思いがどれほどのものだったのか……考えてしまうものがあるよ」
マリの存在について
ここで、急にラストの話になるけれど、マリの存在がその象徴だと?
マリって、どう解釈しようか迷うよね
カエル「一部では庵野秀明監督の奥さんである、安野モヨコなのではないか? とも言われているよね?」
主「それは庵野観としては間違いじゃないと思う。
だけれど……自分はもっと普遍的な存在だと言いたい。
それは……単純に恋人、あるいは結婚相手だよね」
カエル「え、それこそ安野モヨコじゃ……」
主「いや、そういう特定の個人じゃなくてさ……
若い頃の恋愛って、まるで『運命の相手だ!』って感じで、絶対的な相手だと思い込みがちだ。だけれど、大人になって実際に結婚する相手はそうじゃない。
とても唐突に現れて、最初から極端に惹かれていたわけでもなく、なんとなく付き合って、なんとなく結婚して、いつしかその相手が特別になる。
それが恋愛という行為だと思うわけだよ。
つまりさ、恋愛対象、あるいは結婚相手というのは”最初の他者”でもあるのではないだろうか?」
つまり、家族が社会の最小構成単位であり、その家族を作る行為が社会を描く上でも大事だと
ここは後々にもつながるけれど、マリじゃないとダメなんだよね
主「その意味では誰も良かったけれど、その相手はレイやアスカではだめだった……その理由は後述するけれど、やはり大人になって現れた人と付き合う=社会的な活動を描くのに、それが必要だったから、というのもその理由の1つだ。
旧エヴァと新エヴァで一番違うのはマリの存在だけれど、彼女の存在そのものが、キーとなる。
全く過去に知らない、ほぼ面識のない女性だからこそ、マリの存在というのは重要なんだよ」
運命からの解放のエヴァ
運命の仕組まれた子供達
次に語るのが『運命からの解放を描いたエヴァ』ということだけれど……
それこそ、カヲルくんのセリフにもあったよね
カエル「確か『君と同じ、運命を仕組まれた子供達さ』だっけ。
意味深だけれど、それってどんな意味があるの?」
主「単純にさ、カヲルくん達は運命を仕組まれた子供達だったんだよ。
それこそアスカが語っていた『綾波シリーズはシンジに好意を抱くように設定されている』というのと一緒。
それこそが彼らのキャラクターに与えられた使命であり、運命だった。そこから反することは……できなかったんだろうね。今までのエヴァならば」
カエル「……それはゼーレが作ったシナリオとか、そういうのと同じ?」
主「そう考えてもいいだろう。
基本的にエヴァという作品は全てシナリオ通りに動いていた。そのシナリオは、言葉を変えれば運命とも言える。その運命通りに動いていたら、それはこの繰り返す運命からは逃れらない。
つまり、輪廻転生からの解脱、これこそがこの物語では重要だった。
キリスト教の影響ばかりを考えられているけれど、最後に仏教に行き着くのは、とても面白いよね」
アスカについて
その運命を仕組まれた子供達の中でも、特に語りたいのがアスカなんだね
まあ、私自身はアスカ派ですから!
カエル「今回のアスカ絡みで注目したいセリフはこの2点だと思います」
- 「あの頃はシンジのことが好きだったんだと思う。だけれど、私が先に大人になった」
- 「ありがとう、僕を好きだといってくれて。多分、僕も好きだったんだ」
主「別れの言葉だよね。
自分は何度も語るように、エヴァという物語のヒロイン、お姫様はアスカだと思う。マリも『姫』と語っているのは、彼女に与えられた役割が姫だから。
エヴァは典型的な姫騎士物語ではあるけれど、それを助けるはずの騎士=シンジがそこまでアスカの方を向いていない。
これがとても……すれ違う要因となってしまっている」
カエル「……ふむふむ」
主「だけれど、最後の最後でシンジはアスカを本当の意味で救うことができた。
そしてそれは、運命が……騎士が姫を助けられないという運命からの解放である。つまり、アスカはシンジのことを好きでなくてもよくなったし、それによってシンジもアスカのことを救うことができる」
じゃあ、ケンスケに惹かれていくのも必然なんだ
基本的、アスカって年上好きだからね
カエル「マザコンだけれど、ファザコンでもあるからね。
同年代の男よりも、大人な自活できる男の方に惹かれるのであれば、確かにシンジはダメかも……あれ、この運命って、最初から悪意満載じゃない?」
主「だからこそ、そこからの解脱が重要なんだよ」
永遠の大人と、成長する子供
そうなると……ゲンドウってなんだったの?
変わらない大人の象徴かなぁ
カエル「庵野観で言うと、過去の庵野秀明ということもできるし、子供から見た親や大人ということもできるよね」
主「まあ、でも、親子関係が昔と大きく変わったからね。
もう、エヴァのシンジとゲンドウの親子関係って感覚的には遠い存在なんじゃないかな。ある一定の世代までは、親は『肩を叩くか、殺すか』って相手だったかもしれないけれど、今はもうそんな時代じゃないように感じる。
シンエヴァってわかりやすく語ると、”永遠を望む大人と、それを否定する(成長する)子供”という構図の作品だよね」
カエル「永遠の子供である運命を背負うことになるシンジ・アスカたちと、そうでないトウジ・ケンスケたちでも、こっちの子たちはみんな最後は普通の人になるもんね。
ミサトさんも子供を産んでいるし、継承はされているわけで……」
主「永遠VS継承、という意味では『鬼滅の刃』とかにもつながるんじゃないの?
そういう記事も今後出てくるだろうし」
あとは、やっぱりマリってこの視点だと、どんな存在なわけ?
それこそシンジを解脱してくれる女性だろう
カエル「……なんか、下ネタっぽい」
主「ラストシーンでさ、2人で駅を走り出すじゃない?
あのシーンって、電車に乗らないのがミソなんだよ。
いつも語るけれど、"電車=運命”のメタファーなんだよ。だけれど、2人して電車を背に向けて、駅を出ようとする。それが運命からの解脱、を表現しているのではないか、ということ。
つまり、先に語った『マリじゃないとダメ』って言葉の意味は
- シンジが知らない他人との交際=最小の社会への関わり
- 仕組まれた運命からの解脱=旧エヴァに登場しない人物
という条件を考えると、マリしかいない。
その意味では、マリと最後にくっつくのは、物語上の必然だったわけだよね」
カエル「……はぁ〜、なるほどね。
つまりマリは
碇シンジ・エヴァンゲリオン・庵野秀明の3者を救う鍵となったんだね」
リアルと虚構の付き合い方の大きな変化
虚構の否定?
じゃあ、いよいよ最後の項目に入りますが……リアルと虚構について語っていきましょう
これって、色々と意見が割れているポイントだよね
カエル「『シンエヴァで庵野監督は虚構を否定している!』という解釈もたくさんあるよね。
それも1つの解釈として、うちとしてはどんな意見なの?」
主「意見も何も、真逆だよ。
何も否定していない。
むしろ、虚構との融合だよね」
カエル「あ、じゃあ、全然違うんだ……」
主「あくまでもうちの解釈だけれどね。
今作で最もアニメらしいシーンというか、その挑戦が映えたシーンというのは、やはり終盤。1人で海で呆然とするシンジのところで、原画、ビデオコンテという形で徐々により原始的っていうのかなぁ……根本の、アニメ素材の形へと姿を戻していく。
そこはテレビシリーズ26話との対になる描写でもあるよね」
もっと色々な可能性があった……ってやつだよね
今回はその逆な気がするけれどね
主「個人が消失と共に、無限の可能性があったものが、マリの登場によって固定化されてしまったのが面白い。
それが救いなんだよね。
確かにカヲルくんの『君はリアリティの中で救われていたんだね』ってセリフもあったけれどさ、確かにそれが虚構の否定に感じられたのかもしれない。
だけれど、それはシンジ=庵野監督自身が現実で満たされていたというだけであり、虚構の否定ではないと思うんだよね」
制作手法とメッセージの融合
虚構を否定していないって、どうして言えるの?
庵野さん自身が言っているじゃない?
カエル「え、そんなこと語っていたっけ?」
主「パンフの中でさ。
『加えて、エヴァ破の頃から試みていた特撮映像の手法と感覚を取り入れたアニメ映像の面白さ。
エヴァ破の頃から願っていた実写映画の方法論と技術論を取り入れたアニメ映像の面白さ』
この”実写と特撮の手法を取り入れたアニメの面白さ”とは、どういう意味なのだろうか?
それこそが、”虚構と現実を合わせたアニメ表現”であり、虚構そのものを否定していた時代からの訣別だと自分は感じるんだけれどね」
カエル「でもさ、最後に実写映像が流れるじゃない」
主「だから、それもまた1つの融合なんだよ。
あの駅は庵野さんの出身地だということだけれど、駅というのは、先ほども語ったように運命を脱出する、解脱の場所になるわけだ。
確かに現実の世界に行ったように感じられるけれど、それは虚構を”否定”して出ていったのではない。むしろ、その逆で……卒業、あるいはケリをつけた、という言葉が近いのかもしれない。
別に卒業って、学生時代を嫌うわけではないでしょ?
誰もがそこにいられないから、そこから卒業するわけだ。
今回もそれに近くて……ずっとエヴァをやっていられない、空想の世界で生きていくことはできない。人間はリアリティの中で生きるものだからね。だから、最後に実写を描いた。
でも、それは否定ではない。
アニメや特撮の記憶を抱えながら、リアルでも生きていく……そんな宣言だと、自分は解釈したい」
まあ、確かに虚構と訣別したら、その次が『シンウルトラマン』って、訣別できてないじゃん! って笑い話になるよね……
だから、訣別じゃないんだよ、あくまでも卒業、あるいは融合とでもいうか
主「オタクって存在も変わったからね。
それこそ以前はオタク=気持ち悪いやつ、犯罪者予備軍だった。オタクであるというだけで、差別されてしまう時代があった。
それが多数派だったんだよ、そんな時代があった。
それこそ2000年代になって桃井はるこが『萌えはロックだ!』とメイド服着て歌っていた時代。萌えとか、アニメが好きとか、そういうことを大人になって公言することが、ロック=社会への反抗だった時代がかつて存在する」
カエル「今となっては昔の話だよね。
それこそアニメ映画がないと映画館も立ち行き行かなくなるのは、目に見えているし。年間興行収入上位とか、アニメばかりじゃんって」
主「95年、あるいは90年代後半の時代とはまるで変わったんだよね。
それこそオタク像、アニメ像そのものが変化した。
庵野監督自身が変化しのもあるけれど、社会も変化した。
そりゃ、25年だからね。
その中で自分を苦しめたエヴァだけれど、それと対決し、剣(槍)ではなく対話をし、融和し、ともに歩むことで解脱し、卒業した。
それがこのシンエヴァの真価ではないかと、自分は思うよ」
最後に
というわけで、考察記事も終了です
……これで、少しは動画の仇を取れたかな
カエル「……自分のミスで消えただけなのに、大きく出たね」
主「……あんなに時間かけたのになぁ。
あ〜あ、やる気が削がれちまうよ!」
カエル「ちなみに、シンエヴァの満足度ってどれくらいなの?」
主「個人的には10点満点で7点くらい。
ちょっと、綺麗に完結しすぎたという思いはあるかなぁ。
もっとドロドロしたものが見たいって気持ちはあるかな」
カエル「今後も何かあれば追記していきます!」
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エヴァについても中心的に語っています
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