0.はじめに
エヴァとの出会いは前の記事に書いたとおりで、実は特別思い入れのある作品というわけではない。
学生の頃に触れた作品とはいえ大学生の頃なので遅かったのである。
思春期真っ只中のそれこそ14歳前後で触れていれば人生に大きな影を落とす作品になったであろうことは想像に難くないのだけど。
でもまあ精神的には14歳(というか中二病)ということもあり、こんな感想を書いてしまうぐらい無視することのできない作品だったことは確かである。
さて、本題に入ろう。シンエヴァについてだ。
しかし、やはりエヴァについて語ることは色々な意味でとても難しい。たしかにエヴァには「これはオレの(ための)物語だ」と思わされるパワーがあるけどそれは錯覚でしかなくて、結局のところは庵野秀明による庵野秀明のための物語なのでマジで何も言えないってのがあるからである。
きわめて個人的な作品なので他人である我々は沈黙するしかないという感じなのだ。
もちろん作品なのだから語る権利は誰にだってあるわけだけど。
だからオレもネタバレ込みで語っていくけど、作品の中身(このシーンのここが良かった、このキャラのこのセリフが良かった的なやつ)についてはあまり触れない。それよりもシンエヴァを観てオレがどう思ったのか。これについて語っていこうと思う。なぜならエヴァはどこまでいっても「個人的な作品」だからだ。
1.無意味性の提示
とりあえずファーストインプレッションとしては「現実」の解像度がおそろしく上がったということは言っておきたい。
自分なんて、現実なんて、世界なんて、人生なんて、何もかもがどうでもいい!自己嫌悪に陥るがそれが逆にマゾヒスティックな感覚を引き出してくれるのが元来のエヴァだった。
しかし、シンエヴァは違った。
世界五分前仮説的なのをリアルに体験した気分とでも言おうか。世界の全てが変わって見えたのである。
世界の全てに意味なんてないのかもしれない。
生きてることに意味なんてないのかもしれない。
でも……それでいいのかもしれない。
そういう「ポジティブな無意味さ」についてはネタバレ注意の入場特典(画像左)にも表れている。
開くとただただ専門用語が羅列されているだけでわけがわからない。
正直あれを見たって何のネタバレにもならない。でも、シンエヴァを観た後で見ることでネタバレ性に気づくことができる。
つまり、意味なんてない。
正確には(考察の)無意味性を完璧な形で提示しているのだ。
「脚本の人そこまで考えてないと思うよ」とかいうクソフレーズ的なことが言いたいのではなく、そこにはエヴァの、人生の本質は何もないということ。
それはつまり、ただ生きるということだ。
考察はもちろん、究極的にはエヴァにも人生にも意味なんてものはないのである。
宮崎駿も「エヴァンゲリオンみたいな正直な映画作って何もないことを証明してしまった」と言っているわけだしね。
「ここにいてもいいんだ」から「ここにいる」、そして「ただ生きる」へ到達する。
何もない砂漠から歩き続けた庵野秀明に乾杯。
2.対立と融和のゆくえ
ところで、シンエヴァを観てアニメグリッドマンを連想した人は結構多いのではないだろうか。ポストエヴァでありプレシンエヴァであるグリッドマンはきわめて重要な作品だったなと改めて思うわけだけど、オレにはシンエヴァはグリッドマンがやり残したことも背負っていたように見えた。
旧劇には「大人になれ」「現実に帰れ」という誰もが忘れることのできない暴力的で呪いのようなメッセージがあったわけだけど、グリッドマン、そしてシンエヴァではその暴力性が失われている。
グリッドマンの時点ですでに「大人になれ」「現実に帰れ」ではなくなっているのだけど、グリッドマンは「アニメ」と「現実」を明確に分けて考えていた作品ではあった。
しかし、シンエヴァはラストでシンジの声が変わっていたり*1、シームレスに実写へと切り替わったり、渚カヲルの名前に新たな意味を持たせている描写があったことからも明らかで、カヲルくん、いやシンエヴァという作品それ自体が陸/海、人/使徒、子供/大人、旧劇/新劇、現実/虚構……あらゆる二項対立を繋ぐ渚になっている。
「大人になれ」「現実に帰れ」ではなく、歩き続けていたらいつの間にか大人になっていた。それは決して「卒業」ではない。折り合いをつけて生きていこうという至極真っ当なメッセージだ。
おはよう。おやすみ。ありがとう。さよなら。対立が融け合った境界のない世界はやさしいおまじないに満ち溢れていた。
ただ狙い通りなのか結果的になのかわからないけど、シンエヴァは良くも悪くも時代に合わせた作風になっているので取りこぼしがあるのは間違いない。惣流・アスカ・ラングレーはまさにその象徴といえるだろう。
アニメグリッドマンチームの新作であるダイナゼノンにはシンエヴァが取りこぼしたものを掬い上げようとする何かに期待したい。つまり、シンエヴァがグリッドマンとダイナゼノンを繋ぐ渚になることに期待したい。
エヴァを「終わらせる」という意味でシンエヴァは大傑作だった、これは間違いない。
だが、あらゆる二項対立を繋ぐ必要はあるのだろうかという疑問は残る。
たしかに今はオタクという概念が「従来のオタクから単なるアニメ好き」までをも内包する広い意味で使われるようになって個から集団を指す言葉として機能していたり、LGBTQやジェンダー平等が謳われる社会になっている。某氏の女性差別発言が燃えまくったことからもそれは明らかだ(今にして思えばエヴァQのQってクエスチョニングのQでもあったのかな)。
しかし例えば、現実を仮想敵とし、それを虚構への原動力とする生き方って一般的には不健全で正しくはないのだけど、そういうのが必要な時期というのはたしかにあってそれが間違っているとは思えない。
陰キャも陽キャも悩みを抱える同じ人間なんだとするのが今風だけど、陽キャを仮想敵にすることが陰キャの生きる原動力になったりもするのだ。
尾崎豊や欅坂46をはじめとする「大人」なんてクソだ!と叫ぶ曲たちが支持されてきたのは、それが「若者」たちの生きる原動力になったからに他ならない。
だから必ずしも全てを繋げる必要はない。差別は駄目だけど区別はしたほうがいい。一つになる必要はない。
全てを繋げることで失われてしまうものもたしかにあるからだ。
シンエヴァ以降に求められるのはそういう「健全さ」や「正しさ」から一歩離れたもの、すなわち「渚カヲル」が不在の世界である。
*1: 庵野はかつて「存在しないもので構成されているのがアニメーションなので、その中で唯一存在するのは人の声ですよね。生のものはこれしかないんで。」と発言しており、シンジの声が変わっていることの重要性は計り知れない。そして、その声を『千と千尋』や『君の名は。』等に参加している俳優であり声優でもある神木隆之介が担当することには大きな意味がある。単にエヴァからの解放、大人(声変わり)の示唆だけでなく、ジブリとセカイ系、赤ちゃん(坊)と子供(瀧君)と大人(シンジ)、アニメ(声優)と実写(俳優)これらを接続する狙いがあったのではないだろうか。神木隆之介もまた「渚カヲル」だったのだ。