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シン・エヴァンゲリオン劇場版 / 私のゆるされたい願望

いつも映画を観てたくさんの刺激をもらいますが、特に、私の人生において、(きっと上位の)大切なことに気がついた日の記録です。映画の考察ではないのですが、タイトルが紛らわしく感じた方はすみません。

緑だらけのサラダは、私が「緑だらけで美味しくなさそうになっちゃった、レタス新しいのに色があんまり良くない」と言い訳たっぷりに出したら、「美味しそうだと思っちゃった」と笑ってくれた彼の肯定が嬉しかった時のもの。
写真はいつもの、美味しさ盛れてる彼撮です。

シン・エヴァ観ました

先日、話題作であるシン・エヴァンゲリオン劇場版を観てきました。

シン・エヴァンゲリオン劇場版

タイトルの正式名称を確かめようと映画のジャケ(表現合ってるかな…)を見にいったところ、タイトルの後にリピートが終わる記号が付いていました!
庵野監督は、この作品は終わると言い切っていたので私はその表現を素直に信じていますが、もしかしたらリピート開始の記号のところまで戻るのかな、という淡い期待感も残されていて、ますます惚れ惚れしました。作り上げられたという表現がまさに相応しい超大作と言える。スタンディングオベーション。

庵野監督のお人柄にはすっかり惚れ込んでしまったのですが、それはまたの機会に掘り下げるとして。

エヴァを観たきっかけ

私は実は、エヴァなんて好きじゃなかったんです。嫌いなのではなく、「観たことがなかった」。好きの反対は嫌いではなく無関心、とはよく言い得ていて、私はエヴァに関心を持たないまま、なぜ皆がエヴァを観るのかという疑問も持たずに生きてきた。

そんな私がなぜ映画館を足を運んだかといいますと、単純なきっかけ、彼がエヴァの大ファンで観たいと言ったからです。(観終わった後、僕の四半世紀エヴァンゲリオンが終わりました、と表現していました)

もともと映画が好きな私は、二つ返事で了承。一緒に楽しみたいと思ったので、映画を観る日を決めてからというもの、彼にもアドバイスをもらいながら、テレビアニメ版から過去の劇場版まで、過去作品を一通り観てから当日を迎えました。おかげさまで、胸熱鑑賞大満喫できました。

観た後

映画館から帰宅し、雪見だいふくを食べながらおうちティータイム。映画の感想などを尽きることなく述べ合い、YouTubeの解説動画を見たりしながら、それぞれ眠りにつくまでエヴァの余韻に浸りその日を終えました。

その日の出来事を、彼がインスタに投稿していました。

結びのあたりに

〜重要な事に一緒に付き合って下さった彼女に重ねて感謝します
誰でもいいんでしょとか
もっとエヴァとかアニメとか好きな人と行けばいいんじゃないのとか言わないで下さって
ありがとうございます〜

独特の感謝節出ていて、私的にはニヤリです。
ニヤリするとともに、はっとしました。

〝ゆるされる〟ということ

私もそういう思い、抱いていた。
既視感を抱き記憶を遡って〝そういう〟って、どんなことかブレイクダウンしてみる。

◆どんな時も、自分が好きなことをやめたくないし、やめる必要はない(やめたら私でなくなる、私でいるために好きなことが必要)
◆好きなことは好きだから誰にも強要したくない(強要したら楽しくない)
◆だけど、好きな人が私の好きなことを好きって言ってくれたらなんという幸せなんだろう(感想を共有したりできるし楽しめる時間が増える

3番目が、私にとって〝ゆるされること〟という概念になっている。
〝ゆるされる〟という表現は適切かわからないけど、いつかの実弟との会話の中で気に入った私のキラーワード。
「あずには、ゆるしてくれる人が合うと思うよ」
いつしか私に〝ゆるされたい〟願望が生まれ、タイプの男性は〝ゆるしてくれる人〟になった。
(誤解なきよう申し添えると、今まで近しい存在の方に、やりたいことを強く反対された経験はありません。生きたいように生きられた幸せな人生です。)

彼の感謝の言葉シャワーを浴び続けて、いつも私は感謝の言葉を返していたけれど、その言葉以上に深い喜びに気がつくことができた気がする。今回のエヴァは、私が〝ゆるした〟出来事だったけど、当然のことながら〝ゆるす〟自覚なんてなかった。
私は、好きな人が、好きなことしている顔をみるのが好きだ。

これからの私

私は〝ゆるし、ゆるされる〟関係が心地いいんだなぁと改めて気がついた。彼とのことに限らず、家族とも友達ともそうだ。
今の私、仕事以外の仲間と過ごす時間の中では、音楽を聴くことやDJをしていることが多い。それを〝ゆるし〟てくれている、彼や家族や、仲間たちに、多大なる尊敬と感謝を抱いています。

こうしてわざわざ2,000字超のテキストに落としてみると、大袈裟なような、なんてことないような、気恥ずかしく思えてくるけど、〝なんてことないこと〟ほど見落としたくない。

日常はいつも私の手の中にある。
掬うことも、見落とすこともできる。
止まることなく、ときに焦りを感じるほどに、
意識、無意識、その狭間、私の脳内にところ構わず降り注ぐ刺激や感情のシャワー。
その中に、キラッとするものが混ざってる。
YOASOBIさんの言葉を借りて
「思いつく限りの眩しい明日」を迎えよう。

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